邑書林の『セレクション柳人』をときどき引っ張り出して読んでいる。いつということなく、だれのをということなく。一人の作家のまとまった数の作品を読むことができるセレクションがあることはありがたい。以前にはあまり注意を払わなかった句に惹きつけられたり、もちろんやっぱり好きな句は好きだったりする自分に気づくこともおもしろい。池田澄子さんが書いていらっしゃる畑美樹論も改めて興味深かった。《私性と「わたくし」―畑美樹の樹を嗅ぐ》と題された文章の中で、坪内稔典さんの「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」という俳句と、畑美樹さんの「わたくしのしを嗅いでいる春の部屋」という川柳の比較から、俳句と川柳ということについても触れていらっしゃる。畑美樹さんの句においては、「私」に対する意識が不可欠であり、繊細な心細さを持ちながら自分を中心にす据えることによって、「人間の中のさまざまな私」を描いているのではないかと論じていらっしゃった。池田さんの文章を引用させていただく。
では、「たんぽぽ」の句は川柳なのか。俳句である。
説明は難しいけれど匂いが異なる。コレは俳句の匂いだ。
池田さんは「理論的な分析や知識にあまり関心が持てなくて、知的な読み方や物言いがひどく苦手」だと謙遜なさっているけれど、そんなものよりも「匂い」のほうがはるかに説得力も真実味もあることもあると思うのである。